疑え、自分の全てを疑え
気質、性格というのは厄介で生まれた時から備わったものであるから、自分の中の物差しはある程度決まっている。成長していくにつれて培うものも多々あるが、根本的に変えるのは難しい。
自分の感情は自分で名付けていくものだと私は思っていて、それは人それぞれうれしい、悲しい、楽しい、怒り、度合いが違うのだから、他人に計れるものではないからだ。
自分の感情に優しくなることはとても大切だ。
だけど日常的に襲い来るこの重苦しさは、なんだ?わたしに枷を与えているものは、なんだ?
そう問うた時、それもまた、己の感情なのだ。
何故あの人はあんなに人と喋ることが出来るのだろう、わたしもあんな風に話したいのに。なぜわたしもあんな風に笑えないのだろう、私もあんな風にわらいたいのに。なぜあの人はあんなに素直になれるんだろう、わたしも素直になりたいのに。
あんな風に、あんな風に、あんな風に
その中身を、かつて覗いたことはあっただろうか。なにが私の望みを押さえつけていたのだろうか。
感情だ。
感情の多くの表現方法を知っているのは人間だ。そして、感情を感情で抑え込むことが出来るのもまた人間なのだ。
そう、疑うということ。自分を疑うということ。自分の性質を疑うということ。疑うという行為が、自分を救うこともあるのだ。
貴方が抱えているその大きなものは、本当に抱えていかなければならないものなのか?
余計なものは、投げ出してしまえ。